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2020.02.10

ロシアの政体は変わってもチャイコフスキーの評価は変わらず

ロシア最大の音楽家といわれるチャイコフスキー。
モスクワで4年おきに開催される世界的に有名なコンサートにも、チャイコフスキーの名前が冠せられています。
ロシアの高名な音楽家という堅苦しイメージがあるチャイコフスキーですが、彼が作り出したメロディーは万人の心に響くという特徴があります。
チャイコフスキーとは、どんな作曲家であったのでしょうか。

大国ロシアが誇る巨匠チャイコフスキー

チャイコフスキーは、ロシアが帝政から共和制に移行し、そして資本主義となった現在にいたるまでロシア人から故国を代表する音楽家として高い評価を受けていることでは盤石の作曲家です。
その代表作には、『白鳥の湖』『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』などがあります。そのタイトルなら聞いたことがある!と思う方も多いことでしょう。

音楽とは無縁であった幼少期

幼少時から音楽教育を受けた先人たちとは異なり、チャイコフスキーは音楽とは無縁の家庭に生まれました。
1840年、ピョートル・チャイコフスキーは、鉱山技師の次男として生を受けます。両親の意向で、10歳で法律学校に進みました。つまり、音楽家にはありがちな神童から天才へのコースをたどらなかったのが、チャイコフスキーなのです。
彼が本格的に音楽教育を受けたのは、法律学校在学中の宮廷合唱団からの指導者からであったという説もあります。
19歳で法律学校を卒業し、法務省に勤務しました。しかし、チャイコフスキーは音楽を愛し、趣味として音楽は続けていたのです。

20代から始まった音楽家としてのキャリア

音楽家としての生得の才能があったチャイコフスキーは、1961年にロシア音楽協会が専門的な音楽教育を始めるとそれに加わります。21歳の時でした。
23歳で法務省を退職し、同年に創設されたペテルブルク音楽院に進みます。3年後に音楽院を卒業すると、1866年からはモスクワに創設された音楽院の講師となりました。当時の音楽界は人材難であったために、若きチャイコフスキーにもこうしたチャンスがあったのです。後から考えれば、これは非常に象徴的なことでした。結果的にチャイコフスキーは20代に、ロシアを代表する2つの音楽院の創設にかかわることになったのです。
1866年には最初の交響曲やオペラも完成しました。音楽家としての第一歩を、チャイコフスキーは歩みだします。

クラシックの王道を行ったために世界から愛されたチャイコフスキー

19世紀に世界を席巻した動きのひとつに、民族主義があります。
19世紀後半、ロシアでも文学や音楽において民族主義の動きが高まりました。
当時のロシアには、5人組と呼ばれたロシア民族主義の音楽家が存在しています。バラキレフ、キュイ、ボロディン、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフがその5人です。
この5人組の音楽は、現在も人気があります。しかし、5人が束になってもチャイコフスキーにはかないません。
チャイコフスキーは、この5人と同時代に生きながらその流れに逆行し、クラシックの正統を歩むことになります。これはつまり、チャイコフスキーの音楽はロシアらしさに欠け、ゆえにロシアの国外でも広く受け入れられるという幸運な要素を有していたのです。

スキャンダルと音楽的な成熟と、1870年代

30代のチャイコフスキーは、私生活の問題と音楽面での成功という相反するさまざまな事象に彩られて過ごします。
チャイコフスキーの初期の作品には、当時の潮流であった民族主義の影響がみられたものの次第に薄れ、1875年に発表したピアノ協奏曲第1番はドイツの指揮者ハンス・フォン・ビューロに激賞されました。
1876年には、『白鳥の湖』を発表。
ところが、1877年にはわずか2週間で結婚が破綻し、自殺を考えるほどの痛手を受けます。
その後、ドビュッシーともかかわりがあった大富豪メック夫人の後援を得て、チャイコフスキーは経済的安定を得ます。彼が、ロシアの職業的作曲家第1号となることができたのは、彼女の後援があったればこそでした。
チャイコフスキーよりも9歳年上であったメック夫人との関係は特異で、2人は一度も会うこともなく、しかし1300通の書簡を交換するという仲でした。
この経済的安定を得て、チャイコフスキーはオペラやバレエの名曲を発表していきます。『眠れる森の美女』や『くるみ割り人形』もこの時期に完成しています。
ロシアの民族主義とは一線を画していたチャイコフスキーの音楽はロシア国外でも受け入れられ、チャイコフスキーは世界各地で演奏に参加するようになるのです。

遺作となった『悲愴』

チャイコフスキーは、1893年10月28日に交響曲第6番『悲愴』をペテルブルクにおいて初演、その9日後に亡くなりました。
その死は自殺説も含め謎となっていますが、人々の心に残ったのは『悲愴』の革命性でした。
ベートーヴェンにしてもブラームスにしても、交響曲とは最後にジャンジャンジャーンといったような盛り上がりを見せて終わるのが常でした。
ところが、チャイコフスキーの『悲愴』は、いつ終わったかわからない終わり方をするという非常に型破りな曲であったのです。当時の人々は、この不思議な終わり方に戸惑い、どう反応すればいいのかわからなかったと伝えられています。チャイコフスキー自身は、傑作であると自負していたようですが。
『悲愴』という副題とともに、チャイコフスキーの突然死もあって、自殺をはじめとするさまざまな説が話題になりました。そのひとつに、チャイコフスキーは当時タブー視されていた同性愛者であり、それを苦にしての自殺というのもあります。
いずれにしても、ロシア的すぎないロシアを代表するチャイコフスキーが、最後に革命的な名曲を残して亡くなったことは間違いありません。

ピアノ協奏曲第1番をめぐるエピソード

華麗で流麗な『ピアノ協奏曲第1番』は、出だしのメロディーが特に印象的で、コンサートを行ってもチケットが売れやすい人気曲といわれています。
この曲には、ちょっとしたエピソードがあります。
チャイコフスキーは、完成したこの曲を当時のロシアでは最高のピアニストと呼ばれたニコライ・ルビンシテインに初演してもらおうと打診しました。ところが、ルビンシテインは「こんな曲はとても弾けない」と酷評し拒否するのです。
がっかりしたチャイコフスキーが、次に楽譜を贈ったのがドイツの指揮者ハンス・フォン・ビューローでした。彼はこの作品を絶賛、初演を行い、たちまちヨーロッパ中で大評判となりました。
ルビンシテインはこのエピソードによって恥をかいてしまい、チャイコフスキーとの仲が決裂してしまったというお話が残っています。
しかし、チャイコフスキーが残した名曲『ピアノ三重奏曲』には、副題に「偉大な芸術家の思い出に」とあります。これは、チャイコフスキーがかつての友であったルビンシテインに捧げた曲なのです。50分近いピアノ三重奏曲は、美しいメロディーがこれでもかこれでもかと繰り返される名曲で、チャイコフスキーの旧友への思いを感じることができます。

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