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2020.05.25

歴史に名を残すピアニストたち その2

星の数ほど存在するピアニストたち。
しかし、独自のスタイルを確立し、後進たちに多大な影響を与えるピアニストというのは数がかぎられてきます。
ザ・芸術家といってもよいほど自己を貫き、時代を生き抜いてきた3人のピアニストを今日はご紹介いたしましょう。

ウラディミール・ホロビッツ

20世紀最大のピアニストの1人ホロビッツは、1903年に生まれています。
20世紀を迎えていた世界が、新しい時代や新しい音楽を求めていた時代に誕生したホロビッツは、「革命の落とし子」という触れ込みで世に出たピアニストでした。
ウクライナに生まれたホロビッツは、若いころからピアノの演奏において突出した才能を見せていました。キエフ音楽院に学んだホロビッツは当初、ラフマニノフのような作曲家になることを目指していたともいわれています。しかし、革命に揉まれた時代の中で、生活のためにピアノを弾くことを余儀なくされました。若いころから、指を平らかにしてひく独特の奏法を習得し、その音量には定評がありました。
ピアニストとしてキャリアをスタートしたホロビッツは、その容貌がショパンに似ていることもあいまって、ファンクラブができるほどのスターへと駆け上がります。
1924年にレーニンが死ぬと、ホロビッツの才能に目を向けた興行師によって西の世界へと向かうことになりました。ドイツやイタリアで演奏会を開いていたホロビッツは当時20代前半、「技巧は文句なしのすばらしさだが情緒にかける」と批評されることもあったようです。
25歳の時、ホロビッツはニューヨークに向かい、憧れていたラフマニノフに出会っています。ラフマニノフは当時、55歳でした。
ニューヨークでホロビッツは、チャイコフスキーの協奏曲で指揮者をないがしろにするという演奏を披露し、「鍵盤から煙が出た」と評される鮮烈なデビューを飾りました。
また、ショパンに似ているといわれたホロビッツと、ショパンのひき手として有名であったルービンシュタインとは、生涯を通じて友人であったり絶縁をしたりを繰り返す縁があったようです。
30代に入った1935年以降、ホロビッツは体調を壊すことも多くなりました。演奏会ができないときには、ラフマニノフやビゼーの編曲をして過ごしたと伝えられています。ホロビッツと同じく精神を病むことが多かったラフマニノフが、その無聊を慰めたというエピソードも残っています。実際、1943年にラフマニノフが亡くなった時には、ホロビッツは大変なショックを受けてしばらく演奏ができないほどでした。
1945年、戦争が終わった時ホロビッツは42歳でした。1953年以降、ホロビッツはめったに人前で演奏をしなくなり、「幻のピアニスト」と呼ばれるようになります。
1965年に、12年ぶりとなるコンサートをアメリカのカーネギーホールで行い、「ヒストリカルリターン」と呼ばれました。その時の人々の熱狂は、暴動を思わせるほどだったと伝えされています。ウクライナ生まれのホロビッツは、アメリカの市民権を獲得しています。
1974年以降はヨーロッパや日本での演奏会も行いました。日本での初演は1983年、カラヤンのコンサートチケットが3万であった時代に、ホロビッツのチケットは5万円という高値がついて話題になりました。
亡くなったのは1989年、86歳の天寿を全うしました。故郷のロシアにも晩年には凱旋公演を行い、従容とした死であったことでしょう。
ホロビッツの演奏の最大の特徴は、ミスタッチが非常に少ないこと、超絶技巧、そして会場の隅々まで届くパワフルな音でした。ルービンシュタインでさえも、ホロビッツの煌びやかな才能に嫉妬したといわれ、20世紀の演奏家としては随一の存在となっています。

グレン・グールド

グレン・グールドは、芸術家を絵にかいたような人間嫌いの演奏家です。
1932年、カナダのトロントに生まれたグールドには、彼がお腹にある時から母がピアニストになることを望んでいたという伝説があります。
3歳からピアノを習い始めたグールドは、文字を覚えるより先に楽譜が読めるようになりました。7歳でトロント音楽院に入学、神童から天才少年への道をたどり始めます。
10歳にして、バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻をモノにしていた早熟の天才でした。
1945年、13歳で初めてのコンサートを開催しています。当時のグールドは学校生活になじまず友達もおらず、飼っている金魚にバッハやベートーヴェンなどの名前を付けていたそうです。
19歳で、師であったアルベルト・ゲレーロと絶縁、わが道を行くことになります。
グールドの最大の特徴は、ピアノの音響に非常にこだわるという点でした。ピアノのブランドではなく、音響や機械をこよなく愛した人で、共演経験もあったカラヤンと似ていました。
1955年に全米にデビューした時には、バッハやスウェーリンク、ベルクなどの難解な曲ばかりを選び、これがまた大いに話題になりました。それを機にCBSと契約を結んだグールドは、まったくマイナーであったバッハのゴルトベルク変奏曲を録音。これはベストセラーになりました。ちなみに、このアルバムは1956年に世に出ましたが、同じ年にデビューしたのがエルビス・プレスリーだったのです。
グールドの特有性として、観客の前で演奏することに魅力を全く感じないという一事があげられます。聴衆とのふれあいや一体感は、彼に少しも感動をもたらしませんでした。
そのため、30歳になるとコンサート活動からは完全に引退、その後はレコード、ラジオ、テレビの世界で演奏活動を展開します。
1980年にはヤマハのピアノを購入し、翌年にはこのピアノでゴルトベルク変奏曲を録音しました。
晩年は指揮者としても活躍しましたが、1982年に脳卒中で倒れ50歳という若さで死去。
グールドは、不世出のバッハの演奏家として現在もよく知られています。古典派を重んじていたため、ルービンシュタインのショパンのコンサートには隠れて聴衆にまぎれていたというエピソードまで。まさに、最後まで自らの思いを貫いたピアニストでした。
独特の彼の性格はその深い精神性を反映する演奏にも表れていて、のちの演奏家たちにも大きな影響を与えています。

ジャン=マルク・ルイサダ

学者のような風貌をもつルイサダは、1958年チュニジアに誕生しました。
6歳でピアノを習い始めたルイサダですが、幼いころは特に目立つ才能を示したわけではなかったようです。幼いころは、20世紀を代表するピアニストであるコルトーのレコードを聴くのが好きであったのだとか。
その後、すぐれた師に恵まれて12歳でイギリスの名門校ユーディ・メニューイン音楽学校に入学、高名な音楽家たちと触れることによってルイサダの才能は開花したようです。
10代半ばで、パリの国立校と音楽・舞踏学校に入学。1985年のショパンコンクールで5位に入賞しました。2005年には、NHKテレビの「スーパーピアノレッスン」にも講師として登場しました。
ルイサダは、ロマン派と呼ばれる音楽の弾き手としてよく知られており、とくにショパンの演奏に関しては独特の解釈で知られています。
穏やかな風貌同様の春風のような演奏スタイルは日本でも大変な人気があり、またルイサダ自身も大変な親日家です。1984年以降来日はすでに20数回。
60代に入ったルイサダは、今後も円熟した演奏を聴かせてくれることでしょう。

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