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2019.10.01

故国への思いと恋がはぐくんだショパンの名曲の数々

ショパンの作曲家としての生涯は、「ポロネーズ」で始まり「マズルカ」で終わりました。つまり、故国ポーランドをテーマした楽曲の数々が、ショパンの人生を貫いていたのです。ポーランドで生まれたフレデリック・ショパンが、心から愛した故郷で過ごしたのはわずか20年でした。人生の半分は、故国の外で過ごしています。にもかかわらず、ショパンの音楽はポーランドへの思いを抜きには語れません。
そしてもうひとつ、ショパンの音楽を語るのに必要な要素が「恋」でした。「ピアノの詩人」といわれたショパンを詩人足らしめたのは、故郷への熱い思いと女性への愛でした。

幼少期に作曲した「ポロネーズ」が出発点

現在は「ポロネーズ11番」と呼ばれている曲が、ショパンが生涯で作曲した最初のものといわれています。当時のショパンは、わずか7~8歳。「ポロネーズ」とはフランス語で、「ポーランド風」の意です。ポーランドを代表する偉人といわれるショパン、ポロネーズといえばショパンしか思い浮かばないほど彼の作品が有名です。「マズルカ」は、ポーランドの農民たちのあいだで踊られていた舞曲を指します。ショパンがその生涯に作曲したポロネーズは16曲、マズルカにいたっては50曲以上ともいわれています。ショパンの、ポーランドへの熱く切ない思いがうかがえます。

幸福な少年時代からポーランドとの別れへ

病苦に生涯悩まされたショパンですが、幼少期は両親と3人の姉妹に囲まれた幸福なものでした。教養があり社交的な両親と音楽をたしなみ、ワルシャワの神童と呼ばれるようになったショパンは、さらなる飛躍を求めてウィーンへと移住します。当時、東欧の小国ポーランドは激動の時代に突入しようとしていました。ロシアやドイツ、オーストリアに挟まれ、その勢力闘争のはざまで揺れていたのです。ウィーンへたどり着いたショパンにもたらされたのも、ワルシャワの民衆蜂起というニュースでした。

ショパンは結局、その後二度とポーランドの土を踏むことなく生涯を終えます。それを悟ったかのように、この時期に作られたのが現在は『別れの曲』として知られる練習曲でした。このタイトルは、後世につけられたものです。しかし、故国との訣別に慟哭するショパンの心情を表現していることが容易に想像できるような、悲哀に満ちたメロディです。甘さ、優しさ、激しさ、あらゆる感情が込められた『別れの曲』。ショパン自身が、「これ以上美しいメロディは書けなかった」とのちに語ったほどの名曲です。

ショパンの怒りと悲しみが生んだ『革命』

その後、パリに向かったショパンにさらなる追い打ちとなるニュースが届きます。ワルシャワの暴動は失敗に終わり、ポーランドがロシアの支配下に入ったという知らせでした。ニュースに強い衝撃を受けショックを受けたショパンが、その思いをピアノにたたきつけて生まれたのが『革命』です。現在では、この『革命』の誕生説には諸説ありますが、若きショパンの激情と才能があふれ出ていることに変わりはありません。

破れた婚約、そして『別れのワルツ』

パリで作曲や演奏活動を始めたショパンは、瞬く間にスターとなりました。サロンでショパンがノクターンなどを演奏すれば、ご婦人たちがうっとりという光景がしじゅう見られたのです。当時のショパンは、リストやシューマンとも出会い充実した日々を送ったようです。

1835年、ショパンはポーランドを離れて以来会うことがかなわなかった両親と、チェコのカールスバートで再会しました。その感情の昂ぶりを引きずるように、ショパンは同年に婚約します。相手は、懇意にしていた家の末娘マリアでした。マリアとショパンは、マリアと家族が住んでいたドイツのドレスデンで出会っています。20代半ばになっていたショパンは、このころから病に苦しむことが多くなりました。娘の将来を心配したマリアの両親の介入もあり、結局婚約は破れます。そして生まれたのが、『別れのワルツ』でした。ショパンはこの曲に「ドレスデンにて」といいうメモを書いたまま、引き出しに隠していました。発見され公表されたのは、ショパンの死後でした。

男装の才女ジョルジュ・サンドとの恋

苦い婚約破棄を経たショパンが出会ったのが、女性作家ジョルジュ・サンドでした。出会った当初はジョルジュ・サンドに好印象を持たなかったショパンですが、やがて彼女との愛にのめりこんでいきます。ジョルジュ・サンドとは彼女のペンネームです。「ジョルジュ」は男性の名前ですが、彼女自身も男装を好み煙草を愛好する破天荒な女性でした。作家として『愛の妖精』などの名作を残していますが、ジョルジュ・サンドが今もこれほど有名なのはショパンとの恋というエピソードがあるためでしょう。

7歳ほど年上、さらに結婚歴があり2人の子供もあったジョルジュ・サンドは、当時としては画期的にも、作家として「働く女性」でした。にもかかわらず、ジョルジュ・サンドは驚くほど家政や子供の世話が大好きであったそうです。7歳年下のショパンとの恋も、ジョルジュ・サンドの母性から発したのではという説もあるほど。天才ショパンの命を縮めたという悪評までうまれたジョルジュ・サンドとの恋ですが、この恋はさまざまな波乱を乗り越えて、なんと9年も続きます。

その間、『雨だれ』『バラード第2番』『軍隊ポロネーズ』『舟歌』『幻想曲』など、私たちの耳になじんでいる代表作が次々に生まれました。愛らしい『小犬のワルツ』は、ジョルジュ・サンドが飼っていた小犬の動きを描写したとも伝えられる作品で、2人の幸せな恋の姿の象徴ともいえるでしょう。しかし、別れはその直後にやってきました。ジョルジュ・サンドの子供たちとショパンとの関係が悪化、ジョルジュ自身ともうまくいかなくなったショパンは彼女のもとを離れることになったのです。

最後のマズルカに託したショパンの思い

ジョルジュ・サンドとショパンの別れは、1847年ごろといわれています。その後、ショパンはロンドンでヴィクトリア女王の御前で演奏するなど活躍を続けますが、病魔は確実に彼の体を蝕んでいました。7歳年上で母性溢れるジョルジュ・サンドの看病の手を失ったショパンは、その代わりを姉に求めます。

ポーランドからかけつけた姉に看取られながら、ショパンが亡くなったのは1849年。彼が最後に残したのは、『マズルカ68番』であったといわれています。絶筆となったこの楽譜は、ショパンが病床で渾身の力を振り絞ったことを表すかのように、判読が難しかったそうです。シンプルなメロディとリズムではあるものの、ショパンが光ある未来を優しく見つめているような、そんなイメージが浮かんでくる曲です。

生涯の恋といわれたジョルジュ・サンドとの別れから数年で力尽きてしまったショパン。最後に残したマズルカには、あらゆる感情から解放された自由で純な魂だけが宿っているように聞こえてくるのです。ショパンの心臓は、彼の遺言に忠実に、幸福であった少年時代を過ごしたポーランドの地で眠っています。

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